2016年8月の整体 




それを観戦する側からすると

オリンピックは悦楽的な開放感がもたらされ

パラリンピックは常識を解体する哲学をもたらしてくれる

という対比は おおげさすぎるであろうか?


いずれにしろオリンピック パラリンピックは いくたのドラマが集積され

興味が尽きない


とくに パラリンピックの競技者の躍動を観ると

身体の潜在力のソコジカラの脅威が 突風のようにおそってくる

それは不気味といってもよく

たとえてみれば

それまでの私の常識を見事に突破し こなごなにしてくれる


こうして

パラリンピックの前に開かれるオリンピックは

わたしにとってみれば

一種のお祭りの様な軽妙感が強く ただひたすら金に向かって競技する

直線的な開放感を与えてくれるイベントであり


これにくらべ

パラリンピックは

より重層的な思索に満ち 斬新と発明にあふれ

時にハッと雷に打たれたように開眼することや

それまでの観念を根こそぎくつがえされ狼狽することもあり

決して

お祭り気分で観戦できない真剣勝負の様なおもむきである


パラリンピックの競技者はつまりは

身体の 失ったもの 残っているもの そのアンバランスを

どうパワーに転換させていくかの戦いであり

その実験と開拓が

観ているものを哲学的にしてしまう


もちろん その結果

私の整体の身体観に大きな影響がもたらされることは

いうまでもない


もとをただせば 整体もその特徴の一つに

身体の失われたものを 残存している機能でどう補うか

という命題をもっている


こうしたパラリンピックと整体と共通するテーマを

パラリンピックは 鮮烈に劇的に みせてくれる


今年の 8月と9月は

リオデジャネイロの映像に ボサノヴァの音楽をききながら

釘づけになる日が続きそうである