整 体  M I K U N I 
 
とは?



 
  整体 M I K U N I  いのちづな 命綱
 
整体 M I K U N I を いのちづな 命綱 と呼ぶ人がいる

万一の場合 生命を助けるよすがとなるもので

身体の危機に対して救済の役目をになう ロープである

いのちづな 命綱 と 整体 M I K U N I を 呼ぶその婦人は

30年来 体の全体がひどく硬く どうやってもほぐれず

 動きがまるでロボットのようだと 他人に言われ続けた



2015年1月26日 はじめて 整体 M I K U N I の門をくぐったのであるが

その時の体は 全身が岩石の様にひとかたまりの様相であった

元気はあるが 表情は強いあせりに満ちていた

首の可動域域は極端に狭く 口の渇きが強く 目が極度に疲れる状態で

ひどく落ち着きがなかった

すでに それまで30年にわったて いろいろな整体に通ってきたということ

ひとづてに 整体 M I K U N I  のうわさを聞きつけ

期待を胸にやってきた

この日 M I K U N I の整体をうけ

かつて経験したことがない 形容しがたい不思議な感じという感想を残して

その婦人は 帰路についた

その後 3月9日 5回目の整体施術のころより

本人は 体がどんどんと改善されていく感じを強くもつようになった

さらに 5月11日には ほぼ全身にわたる脱力が可能になり

7月6日には 絶好調と言える状態になったのである

当初は 比喩的にいえば

全身が一本のカツオ節のようにかたまっていたのであるが

半年をへて 

その後 時に問題にぶつかるものの

すっかり身体改造の軌道は波に乗り

婦人の体の動きは 

それまでにない優美な動きがあらわれ

婦人の生活は一変し 軽快なものとなったのである

この婦人の変貌をまのあたりにした そのご亭主は

自身も永年にわたる強い背中痛と腰痛に苦しんできたこともあって

整体 M I K U N I の患者となったのであるが

ご亭主も 通院後 ほどなく整体の効果を実感するようになった

こうして

夫婦ともに 変わっていく体を認識することとなり

夫人によれば

「 最近 亭主の機嫌が すごくいんですの 」

ということらしい



整体 とは つまり こういうことで

根深い体の不調と不快を 根底から消していくこと

なのである

もちろん 整体は 万能ではないのであるが

ひとたび 整体を経験すると

身体の神秘と奥義の一端を悟り あるいは体験し

自分の体および心および脳を制御する秘訣に気づくきっかけを得ることが

事が多い

それは 単なる目前の不調・不快の解消にとどまらず

今後の一生の身体つくりを左右するかもしれない

人生には一瞬の決断が 大きな分岐点となることがある

まさに 整体を経験することが それかもしれない

そうなれば

整体が いのちづな 命綱
 と呼ばれるにいたっても

なんら誇張でもないかもしれない


 整体 M I K U N I の やり方

 
たとえば 肩こりに長年にわたり苦しめられている人がいる

その時 整体は 最初から

硬くなった肩の筋肉を柔らかくしようとはしない

まず おこなうことは

その肩こりが そのひとになぜおこるのか

その人の肩こりが なぜ 長い間続くのか

の探求なのである

なぜなら

肩は コリと痛みを感じる現場にはまちがいないが

それをひきおこす根源とは必ずしも断定できないからで

その根源のありかを追究し

根源と発症の現場を結ぶ相関図を明瞭にし

その全体の構図をもとに

根源と発症の現場を執拗に追い詰めていく のが

整体のやり方である

こうした 前処置をおこなったしかる後

不快と痛みの現場である肩そのものを

ゆったりと施術すると

患者は えもいわれぬ快感のなかで

コリが氷解していく瞬間に立ち会える

こととなる



施術が終了すると

あたかも 突風がコリをサット押し出していったような

不思議な感覚になるかもしれない

これが整体である



局部に こだわりすぎず 全体なかで体の動きをとらえ

ゆるやかなリズムのなかで

一気に急所をさがしだし

チグハグになっている体を平癒する

その全体と局部を往来していくうねりが

整体の流儀なのである


整体の名称も こうした動きの形容に由来する


したがって

整体の視野は たんに筋肉群のみにとどまらず

骨格、内臓、神経、及び 心理の動き、性格、

など 多岐に及ぶ

よって

整体の成果は 整体家の力量に大きく左右され

力の不足する整体家にあたって施術を受けた場合

時に

残酷な結末となることも多々あるのである

もちろん

こうした病巣の根源を追い詰めるやり方は

西洋医学で鍛えられた臨床医師とて 同じ姿勢であろう

からだとは つまり全体の整合性の中で機能しているからで

その整合性のなかで

局部の不調を治療する最善の方法を選択するのが

理想的な医療だからである

ふたたび

整体が 肩こりを治療するやり方に戻ると

その原則は

肩こりという病態を標的とする事の前に

肩こりをひきおこすからだの全体性の状態をつかみ

肩こりをひきおこすそのひとのからだ全体

治療の標的とするのである

当然 その逆もあって

肩コリという局部の疾患を解放することで

からだ全体の不如意を一掃する

ことも狙える

 
整体 M I K U N I の 手段


整体は

施術する者 と それを 受ける者の

体と体の ぶつかりあい 或いは 融合

によって生まれるエネルギィの作用と刺激で

受ける者の本来 潜在的に保持していた復元力を引出し

または

眠っていた体の生理機能をめざめさせ

または

矯正しようとする修復能力を一斉に出動させ

もって

痛み・不調・不快を軽快にしようとする

 回帰蘇生の術なのである

その手段は

両者の互いの体の中にあるものを徹底的に活用することにあり

事実上 たがいの体、それ以外の物にたよらない

完全な徒手空拳 としゅくうけん 

つまり

身一つのみで 生命のみなぎりを呼びもどそうとするのである

もともと

身体自体は 驚くべき精緻で奥深い機能と能力をもち

それ自身で高い修復能力をもっている

整体の場で 両者の身体が共鳴するパワーで

身体自身がもつ機能を増幅させる

それが すなわち 整体の手段である

こうして

身体のもつあらゆる機能、・・・

骨格・筋肉・内臓・ホルモン・血液 はもちろんのこと

呼吸・食事・睡眠

会話・夢

脳活動・心理・性格・クセ

運動・体操


これらのはたらきを総動員し

痛み・不調・不快を封殺していくドラマが整体である

したがって

そのドラマの場では

施術する者の

深い叡智とつみかさなる経験の集積が求められ

それを受ける者の

回復への強い願いと祈りが 求められるのである

これらが うまくかみあわないと

行きつまることになる

 
整体 の 歴史


整体は

大正時代から昭和にかけて

それまでの西洋医学の方法論では解決できない体の問題を

別の視点からとらえ直し


日本古来の療法に加え 外国の療法をふくめた広範な思想手技を

独自に解釈創意工夫し

整体という名称でまとめあげてきた

ある臨床運動体ないしはその実践理論をいう。



こうした その歴史的な形成過程の性格上、

内容はかなり広義にわたり

その後 整体が発展するにつれて

整体家の独自な研鑽と追及により

さらに豊かな成果が積み重ねられ

いまや 整体は

個々の整体家の 独自な整体流儀が横溢することなった。

しかし

そうした整体の広義性が逆に百花繚乱の思想と技法を生み

驚異の臨床実績をあげている側面もある。
 
整体とは いいかえれば

人体を人体により その人体の伏在する力で

本来の正常に戻していこうとする

極めて広い人体思想と熟練の技術の凝縮された総称。

その根底にあるのは

日常的な所作・運動・機能にひそむ潜在力で体の変貌をねらうこと。

一見 それは原始的で魔術的に見えますが

そこに秘められた深い哲理と圧倒する経験の集積は

決してあなどれない臨床的体育論といえる。

 
 
整体 M I K U N I の 歴史


整体 M I K U N I  は

整体の大きな歴史と伝統の流れの中にあって ひとつの流儀の名称である。

1990年に 院長である聖徳富雄が 

東京と中国福州の地に同時に興したのが

整体 M I K U N I  の 始り。



その後 幾多の変遷を経て

 M I K U N I の整体技法と思想は さらに 進化と深化をくりかえし

2009年8月、 名古屋・覚王山に 新たに拠点をかまえた。


整体そのものが本来 

広範な人体思想や技術の練磨に練磨を重ねて深化してきたと同様に

整体 M I K U N I も 聖徳富雄が 広範な人体思想や技術の修練を重ねて

創り上げてきた 整体流儀の結実といえる。

 
M I K U N I  の 意味


整体 M I K U N I  とは

漢字表記にすると 『三国』である。

すなわち 『三つの国』との意味をもっている


整体的な考えを

すべて 『三つの方向・構成』で考えるという事の

暗喩・あんゆ(背後に秘められた意味)なのである。

その『三つの方向・構成』とは

あらゆる局面において

 三つの方向から判断し施術しようとする

整体 M I K U N I の根本原理で

三つの形が連続的に動的に展開していくエネルギィ平衡をあらわしたもので

複雑精緻な人間の体にまつわる力学を

まず『三つの方向』で

切り取り、処理し、対処しようとする意味が付与されている。

そのイメージ図を示すと


三つの要素の連続体が

人間の体である

人間の体を

三角体の連続と見る

肉体を分解すると

三角体にいきつく
 
   
 三角体が集まり

六面体の生命構成を作る


三角が 3 X 3 で 

六面体を作る


人体を

六面体の連続とみる

   
人体の動きを

三角体で象徴する

人体の形象は

三角体で収束される
   

整体 MIKUNIは

西洋医学と

中国・インド医学と

日本整体の

融合である
 
  西洋医学の成果を
援用しなければ
整体が成立しないように
西洋医学では
解決しにくい問題を
中国・インド医学と
日本整体が
克服する
 

一つの現象を 

三つの方向に分解して

解決する

或いは

三つの諸現象を 

一つに融合する

 
 
複雑精緻な
人間の動きとメカニズムを
絶えず
複数の視点で
見つめなおすこと
又は
重層複眼に分解すること
或いは
三つの分散した
エネルギィーを
一つに収束して
大きなパワーをだすこと
 
骨格と内臓と筋肉を 

同時に

観る
 
  骨格と内臓と筋肉は
不可分なもので
それを統合的に考えないと
体の全体の
不調・不快・痛みは
解決しにくい
 

整体施術中の感覚


それを受ける者は
施術中
絶えず三つの感覚を
行きつ戻りつ
感受することで
大きな効果を生む
痛みは 
脳に覚醒を与え
快楽は
体の
完全弛緩を実現し
異常な感知は
 正常への回帰渇望を
高揚させる
 
 
 
施術中に 繰り返し
一瞬の痛みを与えます
その次に 
快楽感覚を与えます
そして
異常な感知を与えます
 こうして脳に 
刺激と覚醒と安寧が
繰り返し 繰り返し
波の様に
次々と押し寄せると
やがて体は変貌してくる
 

溌剌とした気力が
体の中心から
ふつふつと
沸きあがってくる感覚は
まさに
充実した健康の実感で
そうした時
にエネルギィは
お尻の下〜頭頂に
向かい
体の中心線に沿って
上に駆け上がる様に
螺旋に
スパイラル昇華していく
その形は 
三角体である
  
 
 
力は その
物性的性格から言って
螺旋の形状で動くと 
驚くべきパワーを生む
ゆったりとした
底辺の静寂から
じょじょにひたひたと 
回転しながら
ある一点に焦点を定めて
登りつめていくと
変質していく
エネルギィーは
 様相を全く変えていく。
この過程で
しなびて衰えて疲れきった
内臓や筋肉が
見事によみがえってゆく
これを
 昇華の三角体形状と呼ぶ
 

三角形とは
もともと
妙に安定しながらも
それを
壊そうとする突出した
攻撃性も備え
調和と破綻を
同時に内臓し
 どっしりとしながらながら
躍動し
静かでありながら
饒舌を予想させ
穏やかでありながら
活発であり
という実に不思議な
二律背反の性格を
おびた宿命が
三角形にはある
 
  これがつまり 

清濁あわせ変幻自在の

体の動きの象徴に

全く酷似している
 

 
 
院長 聖徳富雄の整体人生

 


整体 MIKUNIの源流は 名古屋の千種からはじまる

時は 朝鮮戦争のおかげで日本の飛躍的な経済復興も軌道に乗った頃のことである

戦後の女性の社会への進出は一気に開放され 戦後の日本の職場にはまぶしいいろどりが加わる事になるのだが

そうしたまぶしさ以上に いったん社会で活躍しだすと 女性のたくましさはおどろくべきものだった

そのたくましさとは 家事と育児と職場を 同時にこなしていくパワーであり

家を維持しながら 職場で走り回る 目の回るような忙しさで もくもくと戦後の日本を影で形成してきたのが

戦後の日本の社会進出をはたした女性たちであった

整体 MIKUNIの院長、聖徳富雄の祖母も そうしたうちのひとりであり、

名古屋の千種にて

戦争で夫を亡くし文字どうり細腕で 戦後の混乱期からひとりで大家族をささえてきた烈婦であった

整体 MIKUNIの源流は この院長、聖徳富雄の祖母からはじまる

働きづめで 体を酷使していたらしい祖母は 家の中ではいつも自分の手で肩をトントンとたたいていたので

当時 小学生になりたての幼少の 整体 MIKUNIの院長、聖徳富雄は

同じように まねてトントンと肩をたたいてやっていたが 次には さすり、円を描き、押し、つかみ と

多様な変化をたどり 小学生になりたてにしては多彩に技をかけていくことになった

もちろん 孫に体をさわられれば誰でもうれしい時代のこと、

本当のところどの程度の効果が祖母にあったのか類推するしかないが

実際に 肩のいわゆる 棘上筋(
きょくじょうきん)を せいいっぱいつまんでやると

祖母からは うめきか 嗚咽か ため息か 判然としない声がもれるのを聖徳富雄は 

鮮明に耳に残存しているという。

事実 幼い聖徳富雄が 祖母宅を訪れるのを 祖母はいつも心待ちにしていたと その後 長ずるにおよび

祖母と暮らしていた叔父達から 仄聞したのは頻繁であった

もちろん 幼少の聖徳富雄の手を こがれてのことであろう

それというのも 思い出せば 幼い聖徳富雄が祖母にほどこした肩もみは はんぱではなく

その時間は 一時間や二時間におよんでいた

なぜ そうした時間が確信をもっていえるかというと

当時 聖徳富雄が祖母は プロレスのテレビ中継の大ファンで 

そのプロレスのテレビを観ながら ずっと肩をいじり続けていたからで

当然 聖徳富雄も 祖母の肩ごしに 白黒のプロレスを観ていた

肩をもみ プロレスを観て しらないうちに長時間施術になってしまっていた

聖徳富雄は 幼少より 頑強な四肢にめぐまれていて 特に野球に熱を上げ

いわゆる 根性を至上の合言葉に鍛錬をおこたらなかったので

握力や 腕力には 相当の自身があったらしく その披瀝のできる場として 

どうも祖母の肩を舞台に選んでいたもようである

聖徳富雄と同時代を生きた人たちは すぐに同感してくれるとおもうが

根性は 常軌を逸すれば逸するほど鍛えられると信じてうたがわなかったほほえましい時代で

自分の部屋のかべには だれもが 『根性』と書いた ペナントが張られてあった。

で 聖徳富雄は全精力を放って 祖母の体を楽にしてやろうとおもい

結局は それが後年 紆余曲折をへて 聖徳富雄に『整体』を新しく興す原体験となったといえる

いまでも 聖徳富雄は 祖母の肩をつかんでいるその肩の肉の感触を忘れないという

当然ながら 体のしくみも何も知らないまま ただやみくもに祖母の体をさわっていただけなのかもしれぬが

それをくりかえすと 次第に どこをどう押せば どうつかめば どれくらいの力を放てば

どういう反応が帰ってくるのかを習熟してくる

終には 相手を良い気分にするには どうすればよいかがわかってくる

ここにいたるまでには 何度も何度も くりかえしこれを続け その変化をみながら

突然 悟る

ああ こうすれば こうなるのか!!

たわいもないことがらなのだが かんがえてみれば

広大な河川も その源流を山の奥深く分け入って探索すると

その か細さにびっくりしてしまう経験はないですか?

幼少期の はたからみれば ごくささいなことが

後の人生の進路を決定ずけることはままあること

もちろん ただむやみに力いっぱい両手で肩をもんでいただけであるが

たえず 名古屋の千種で体の不調を訴えていた祖母は

聖徳富雄の幼い手が肩にのるだけでうれしがった

肩もみをした後の 祖母の満足げな雰囲気や 何気ない話や たわいのないやり取りが

はからずも 後年 珠玉の思い出からはるかに超えて 

人生を決定する源流になるとは 聖徳富雄の思ってもみないことであった


 


その後の聖徳富雄の談、

「 祖母の葬儀は かなりの多くの人が次から次へと弔問に訪れていたが 

それ以外は覚えていない ただ、

棺のなかに入れられようとする祖母を見て

あれだけもんでいた肩がひどく小さくなってしまっていたのでびっくりしたのを覚えている
 」 と。



以下からは 整体 MIKUNIの院長、聖徳富雄の一人称の語りとなる。

私が始めて テレビをみたのは 今の名古屋市千種区の地で
私の母の実家の庭で大きなイチジクの木の下だった。
青空のもと近所のおじさんやおばさんや
鼻をたらした子供たちにまじって
力道山の空手チョップが次々と繰り出されるプロレスのテレビ放送を
力動山が黒のタイツをはいてリングをかけまわる躍動を 
文字どうり食い入るようにみんなで見ていた。
力道山の相手は デストロイヤーだったろうか?
そこにイチジクの木のあったことを覚えているのは
私はテレビをみながらイチジクを食べていて
手がイチジクの果汁でべたべたしていたことを忘れないからで
私はイチジクの白いその汁を肩がむき出しになった
薄汚れたランニングシャツにこすりつけながら
力道山に 手がはれあがるほど拍手していた。


 
じつに 涙が出るほど なつかしい思い出で不思議なの
みんなで見ている小さな画面のテレビの向こうには
レンガのくずれかけた低い壁の光景があり 
その朽ちたレンガのかすれた色が妙に鮮明なことである。
B29に爆撃された跡がそのまま手つかずになっていたのだろうか?
まだ 太平洋戦争の爪あとが 残留していたのだろうか?
街には しきりと 小さな三輪自動車が往来していた。

 
私はその頃 よく鼻をたらしていたと思う。
なぜなら 私のまわりの子供もみんな鼻をたらしていたからだ。

私の母の実家は そのあたりではちょっとした素封家だったようで 
町で一番早くテレビを購入して近所の人たちに公開していた。
勿論 その頃は公開するというより 誰の家もサカイがなく 
他人の家も自分の家もみさかいなく
それぞれにずかずかと往来できる風通しのよい気風が
まだ濃厚に温存されていた頃なので
秘密で自分の家族だけでテレビをみることはできなくて 
庭で公開するしかなかったということだろう。
多分 そんな自由気ままな融通無碍の時代がうらやましくて 
このテレビとイチジクの光景は 今でも夢に時にでてきてくる。

そのころの人々は なぜかみんな一様にやせていたように思う。
おとなの男も女も 子供も犬もみんなやせていた。
後年 私がはじめて中国やインドを旅した時の
第一の鮮烈な印象は
中国やインドの街頭で歩く人々が
みんななぜか異様にやせていることで
どこかでこうした光景はみたことがあると
中国やインドで歩きながらいつもおもっていたが 
それはつまり
幼少に名古屋の町並みで周りにいた人々の光景だった。
そのころ名古屋の私の周りの 男の人たちは 
夏にはほとんどがランニング姿で肩をむきだしにしていた。
鎖骨は鋭くくぼみをつくり
肩甲骨はどの人も角がたっていた。
今思えば 実に牧歌的な光景だが 
昭和30年代とは 名古屋にかぎらず
どこでもそんな時代だったのだろうか?
それにしても 今おもうが 
それにくらべて テレビに放映される力道山のタイツ姿は 
すこしメタボな小太りのイメージだったが 
やはり力道山はそうだったのだろうか?
やはりプロレスがもつ茶番劇性が 
節制を要求しないので力道山の体が
少し なまくら になっていたのだろうか? 
あるいは そのころは小太りが憧れの対象だったのか?


話は まったく変わるが その頃 私の叔母が伝書バトをしきりに使い友達と連絡を取り合っていた
いまだ 携帯電話などなく 固定電話を電話代がかさまない様に、秒針をみながら手短に話していた頃、
 叔母が 伝書バトを駆使していたとは 今 考えると驚きである。

     

叔母は 一切私に 伝書バトをさわらせなかった
あるとき  叔母の留守をねらって こっそり 伝書バトを抱き上げてみた
はじめて 動物に触ったので おっかなびっくりだった
その なまあたたかく ほんわりとした 生々しい感覚は異様な経験だった
私の幼少期の 触覚の思い出が この伝書バトと祖母の肩である


その頃 私の母の実家は たくさんの家屋があったので大学生あいての下宿屋をはじめた。
だから私のまわりには いつも名古屋大学や名古屋工業大学の学生がうようよいて 
幼少の私と遊んでくれたその楽しい思い出は尽きることがなく
いまでもその頃の私の遊び相手だった学生の容貌を思い出すことが出来る。
そのころは じつに放縦で、放逸であった。

  
大言壮語に 子供をからかう大学生は 前途洋洋とした選ばれた者たちで
つつましい日常だが じつにのびのびとしたかんじがあふれていた。
こうしたのんきそうに見えるおおくの大学生と楽しく遊ぶ環境は
私に逸楽的で 楽天的で 陽気な 性格を形成させてくれたと思う。
私のまわりには いつも腹をすかせた陽気で明るい未来に満ちたお兄さんがうようよいた。 

続く・・・・・・・